
優雅に爽快に、さぁ水遊び!
年に2回掲載していた「滋賀の城跡 ロマン探訪」シリーズ。今号から城跡に限らずテーマを広げ、バージョンアップしてお届け。第1回は、弥生時代の集落遺跡を求めて野洲川デルタ地帯を専門家とたどりました。
公益財団法人滋賀県文化財保護協会滋賀県内の文化財の発掘調査に取り組み、講演会などを通してその価値や魅力を発信。左から木下義信さん、宮村誠二さん
琵琶湖に流入する最大の川・野洲川。下流域に広がるデルタ地帯では弥生時代の集落遺跡が数多く見つかっています。
「弥生時代には三つの画期があります。大陸からもたらされた稲作が本格的に行われるようになった第一画期。それにより人々の生活が安定し、人口が増え、大規模な『ムラ』ができた第二画期。稲作に欠かせない土地や水を巡るムラ同士の争いが増え、周辺のムラを統括する『王』が現れ、『クニ』が成立した第三画期。野洲川デルタは、そうした弥生時代の前期・中期・後期それぞれの代表的な集落遺跡がそろうエリアです」と滋賀県文化財保護協会の木下さん。
今回は、守山市内にある「服部遺跡」「下之郷遺跡」(国史跡)、「伊勢遺跡」(国史跡)を訪ねました。
野洲川の大洪水が起こるたびに、水没と復興を繰り返したという集落の跡が残る「服部遺跡」。弥生時代から鎌倉時代の遺跡が、洪水による土砂を挟んで層状に積み上がっているのが特徴です。1970年代に入って行われた野洲川の治水工事の現場で見つかり、大規模な発掘調査が行われました。
そこで訪ねたのが、発掘調査で見つかった同遺跡の膨大な数の出土品を収蔵・展示している「守山市立埋蔵文化財センター」。「遺跡の最下層から、滋賀で最も古い弥生時代前期の水田跡が見つかりました。稲作の伝播と関係が深い弥生時代前期の土器と、縄文時代晩期に使われた土器が一緒に出土したことから、稲作技術を持つ渡来系弥生人を在来の縄文人が受け入れ、共存していたと考えられます」と同協会の宮村さん。ほかにもこの地域の文化や暮らしを解き明かす発見が相次いだそう。
弥生時代中期になると、「環濠」(かんごう)と呼ばれる溝を周囲に巡らしたムラが出現します。「県内最大の環濠集落遺跡である下之郷遺跡(紀元前2世紀ごろ)は、幅が5~8mの溝を三重に巡らし、その外周にもいくつも溝を巡らしており、全国でも屈指の規模を誇ります」と木下さん。「環濠は外敵からムラを守る防御施設とみられますが、近年では洪水に対する防災の役割もあったと考えられています」
「下之郷史跡公園」の環濠保存施設では、環濠のレプリカの展示をはじめ、土器、石製や木製の日常品・農具・武器・祭具、植物で編んだ籠などを展示。たくさんの人が暮らし、手工業が発達していたことがそれらを通してわかります。ココヤシで作った器や、他地域の特徴を持つ土器などもあり、交流の盛んなムラの様子を想像することも。
面積が約30万㎡に及ぶ伊勢遺跡(紀元1世紀末~2世紀末ごろ)。「弥生時代後期のものとしては国内最大級。日常生活品はほとんど出土せず、人々が暮らす場所ではなかったことがうかがえます。実は湖南地域のムラを束ねるクニの中枢地で、王が政治や儀式を行う特別な区域だったと考えられています」と宮村さん。「方形区画」と呼ばれる大型建物群を中心に、いくつもの祭殿がサークル状に並び立つ様子も特殊だそう。「中国の歴史書『魏志倭人伝』には2世紀後半ごろに国々が共同して卑弥呼を擁立したことが記されています。この遺跡の王も卑弥呼の擁立に関わっていたのでは」と、好奇心をくすぐられるような説も。
「伊勢遺跡史跡公園」にはユニークな形状の展示施設があり、建築好きの人も訪れているようです。
弥生時代の文化について、さらに深掘りしたいなら「野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)」(地図❺)にも立ち寄ってみては。
弥生時代に使われていたという釣鐘のような形をした青銅器「銅鐸」。野洲市の大岩山でまとまった数が出土し、その実物や複製などが同館に展示されています。
それぞれに模様や動物が描かれていて、大きさもさまざま。中には「飾耳」という装飾が付いているものも。「豊穣(ほうじょう)の祈りなどに使われた祭具とみられます。小さいものが次第に大型化し、使い方も『音を鳴らす』ものから『見てあがめる』ものへと変わっていきます。服部遺跡に近い守山市の新庄でも見つかっているので、野洲川デルタでも使われていたようですね」(宮村さん)
野洲川デルタ地帯を巡るなら、下之郷遺跡から1kmほどの守山市役所1階にある、解放感のあるカフェ「アバンダントリー」でランチはいかが。「選べるパスタ+前菜ビュッフェ」(1749円~)は、20種類以上から選べるパスタ一つと、守山の野菜をふんだんに使ったビュッフェスタイルの前菜やスープ、ドリンクを堪能できますよ。